うたかたの

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世界は妄想にあふれてた

春が溶けた。

口に含んだ瞬間に甘さだけ残して消える綿菓子みたいに、音もたてずにあっけなく、今年の春は溶けて消えた。戸惑うわたしを置きざりに、いつの間にか季節は夏へと変わっていた。

…2023年わたしの春は一体どこへ消えたのか?

ここに書き記すのはわたしの春が消えた経緯とその顛末である。最初に申し上げておくが、わたしは今自分の為だけにこれを書いている。初っ端から言い訳じみていて大変申し訳ないのだけれど、あくまで自分の為に書くものなのなので、支離滅裂で感情的になってしまう部分もあるかもしれないが、どうかご容赦いただきたい。

さて、話を戻そう。

4月中旬、わたしは妄想に溺れていた。…待て待て違う。いや大筋では違わないんだけど、これだけだと大分語弊がある気がする。なんていうか圧倒的に言葉が足りない。その自覚が大いにある。違う違うそうじゃないんだ。

わたしが言いたいのは、『SNSで紡がれる妄想沼に足を取られていた』ということである。そして、そこからなかなか抜け出すことができなかった。もっと言えば、その抜け出せなさにほとほと困り果ててもいた。それもまあ当然と言えば当然だ。だってわたしにとってこの事態は正に青天の霹靂で、まさか自分が妄想沼に溺れる日がくるなんて夢にも思わなかったのだから。そればかりか、妄想を自給自足し暮らしてるムラの存在すら知らなかったのだけど。

きっかけはSNSで何気なくタップしたとある投稿、それがすべての始まりだった。

https://www.instagram.com/snow_meals/

 

現代における推しごとの最初の一歩は「検索」、これに尽きるだろう。スノ担を自覚し自称したわたしが最初に取り掛かったのもまた例にもれず「検索」という名の情報収集であった。現代の引き寄せ呪文は「アクシオ」と唱えることすら必要としない。ただ検索ワードをひとつ打ち込むだけで事足りてしまうのだから。

Snow Man、その7文字で引き寄せられる情報は公式だけではもちろんなくて、関連・類似・おすすめと色とりどりの有象無象が一緒くた、芋づる式かつ雪崩のように喜び勇んで押し寄せる。情報の取捨選択に関してはある程度の経験を積んできたつもりだけれど、自分にとっての要否や快不快を瞬時に嗅ぎ分けるなんていつまで経っても至難の業で、不用意に目にした情報が自分にとってかなりの殺傷能力を有しているなんてこともしばしばだ。それでも推しごとの一環として検索せずにはいられないのがファンの性なのだから、これはもう受け入れざるを得ない。呪文を唱える代償とまではいかないけれど、引き寄せられるのが自分が求めるものだけとは限らないのであれば、検索においての自衛は必要不可欠が当たり前。押し寄せてくる雑多で不確かな情報に惑わされて踊らされてばかりいては身が持たない。情報を得るときは、できるだけ細心の注意を払う必要がある。少しでも危険を察知したら速やかにそこから離れるとか、知り過ぎないことも大事とか、基本的な安全対策に止まるけれど。何にせよ、出来心での深掘りや不用意な探索がわが身を滅ぼす原因になることだってあり得るのだから、情報量も供給のスピードも加速の一途をたどる現代において、ある程度の警戒心はきっとなんぼあっても足りないくらいだ。

そんな常に警戒を怠らないわたしではあるけれど、さりとて人間。その警戒心がふっと緩むことだってもちろんある。結果として、その気の緩みがまだ見ぬ世界へわたしを誘うことになったのだった。

自分の無知をさらすようで非常に恥ずかしいのだけれど、わたしはその、なんていうかそういった妄想アカが咲き乱れる世界というか界隈にお近づきになる機会がこれまでまったくなかった。そういう文化の存在を知ってはいたけど、知っているのと目の当たりにするのって多分だけど全然違う。河童を知ってるのと、河童が目の前横切るのとでは全くもって違うみたいに。

とにかく、突如として目の前に現れた世界は何とも色鮮やか(イメージは蜷川実花の世界観)でとてつもなく異質で異様。わたしからすれば、異彩を放つとかのレベルを超えて、もはや異世界そのもので、お初にお目にかかった衝撃足るやもう。そんな世界がすぐそばにあったことをわたしは微塵も知らなかったし、それまで見えてすらいなかった。人は見たいものしか見ないというけど、ほんとそれなを実感した。

それにしても、すごい世界があるものだ。界隈における暗黙のルールだったりを知った今となっては受け入れ態勢が整ったが、当初は全く理解が追い付かなかった。実在の人物(しかも推し)を使って自分の妄想を自分好みに組み立てて、それを世界に発信するってナニユエ?と。疑問符まみれのまま、数多の作品に触れるうち、違う意味でその世界のすごさを目の当たりにすることになる。

妄想界隈、文才ある人い過ぎじゃね?問題の爆誕である。

ファンであるがゆえに様々な媒体から摂取し知り得た推しの人物像という共通認識。そんな強みも確かにあるんだろうけれど、それ以上に表現力やら構成力やらの巧みさを兼ね備えた書き手さんらがわんさかおられる。そらもう掃いて捨てる程いらっしゃる。人によって好みはあれど、右を見ても左を見ても全方位まんべんなく読み物としてまず間違いないものばかりがそこかしこにお行儀よく陳列されているのである。

えナニコレ?皆さま揃って商業的に「書く」を生業にされてる方々なのかしら?それとも趣味の範囲でこのレベル?これが書き手における普通とか?てかレベルすごくね?高過ぎじゃね?玄人みがえげつない方々がそこかしこでご自身のだったりリクエストだったりを散りばめた色とりどりの妄想をこれでもかとばかりに垂れ流しているとか、ここはどこなの?どんな世界??

突然だけど、わたしは「読む」という行為を愛している。叶うことならずっと何かを読んでいたい。そして、それが自分好みであればある程に食指が絶えず刺激され、その欲望は止まることを知らない。場合によっては下卑た笑いさえもれてしまう。つまり一言でいうと、たまんねぇのである。読むこと、それすなわち生きること。いやそんな言葉じゃ全くもって足りない。だけどピッタリくる言葉が悲しいかな見つからない。とにかくそんなわたしにとって、この界隈は「鴨が葱を背負って先が見えないほどの大行列を成している世界」であったのだ。しかも葱背負いの鴨たちは毎日絶えずに供給されるときたもんだから、笑いが止まらない。この世界最高か?とか思っちゃうのである。いや世界ってマジで広い。すげえわほんと。

春は出会いの季節なんて言うけれど、些細な出会いが人生を思いもよらない方向へ導くとはよく言ったものだ。こうして、書き手と呼ばれる方々の素晴らしく逞しい妄想力溢れる沼との出会いが2023年わたしの春を奪っていったのだった。

想定外の春が過ぎ、迎えた夏。とりあえずは来週発売の円盤を糧にこの夏を乗り切ろう。というか、夏こそ溶けていただきたい。一瞬で過ぎ去ってくれてもお前だったら許してやる。だからお願い、夏よ溶けろ。