うたかたの

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

わたしにとってそれは

推しが燃えた。

生配信中のトラブルが原因らしい。詳細はネットニュースで知った。始業前に開いた某検索サイトで「佐久間大介」の文字が躍る見出しに目が留まった。このとき、わたしはまだ何ひとつ知らなかった。クリックしたその先で、自分の推しが燃えてることを。雨が降っていた。随分と薄暗い朝だった。

この書き出しで始まる作品をわたしはまだ読んでいない。興味がないわけではなかった。けれど、当時は特別惹かれもしなかった。まあそのうち気が向いたら。そんな軽い気持ちで読むのを見送った。それを今、後悔している。こんなことなら、さっさと読んでいればよかった。読み物として、エンタメとして、何より他人事として楽しめるうちに、読んでしまえばよかったのだ。推しが燃える。それが自分事になってしまう、その前に。

これまでそれは完全に対岸の火事だった。様々な場所で様々な理由から、時折起こるその手の火は遠くからでもよく見える。炎の揺らぎには心を落ち着かせる効果があるなんて聞くけれど、もちろんそれはリアルな炎の話であって、この手の炎はその真逆。燃え盛る炎はいつしか悪意の塊に成り下がり、絶え間なく怒りや不安を煽ってくる。赤々とした炎はいつだって進んで近づきたい代物では決してない。その中心にいるのが自分の好きなものであれば、尚更。

わたしはこの手の騒ぎが苦手だ。炎上を前にすると気分が沈む。目を逸らしても見えてしまうものが、耳を塞いでも聞こえてくる声が、心の免疫力を低下させる。だから、極力そういったものからは距離をとり、触れないように避けてきた。時折ばったり遭遇することがあったとしても、見ざる聞かざる言わざるでガードは鉄壁。そう、鉄壁のはずだった。今回、ファンの立場で初めて推しの炎上に立ち会うことになるまでは。いつもはうまくできることが、今回はなぜだか上手にできなかった。目の前で真っ赤に燃えるその火から、目を離すことができなかった。

 

と、相変わらず前置きが長いのだけど、今回書きたいことはこの騒動云々についてではない。ただ、この騒動はわたし自身のファンとしての在り方を明確にしてくれた。在り方っていうのは少し大げさかもしれない。なんていうか、わたしにとって推しとは?の定義がはっきりしたという方がしっくりくる。わたしはそれに結構満足していて、だから今回はその話をしたいのだ。それなのに、調子に乗って長々と書いてしまったものだから、なんというかもう色々と満足してしまった。久々にブログを書いてる高揚感も相まって、本題に到達してないのに達成感さえ感じている。というか、正直もうなんかこれ以上グダグダ書くのが面倒くさくなってきたというのもある。だけど、始めてしまったのだから終わらせねばなるまい。無駄で不要な責任感が顔を出す。だから、まあアレだ。言いたいことは手短に、さっさと話を終わらせてしまおう。

因みにこの件に関して、わたしには思うところが特にない。悲しいかな、この事態をやけに冷静に傍観している自分がいる。いや、全く何も思わないといったら噓になるけど、わざわざお気持ちを表明するのも憚られるし。ただ一つ、その火に向かって投げられる言葉の数々がわたしをひどく不快にさせた。まあそれは目を逸らさなかった自分が悪い。けれど正直な話、ご本人に対してはアイドルって職業の大変さへの同情が大部分を占めていて、できることなら彼の肩にそっと静かに手を置いて、視線で労いたい気持ちでいっぱいなのだ。まあ脇が甘いと思わなくもなかったけれど。でも人間だしとも思ったり。なんだかファンを名乗ることが申し訳なくなってしまう程に、わたしはこの事態をただ静観しているだけだった。

さて、本題。わたしにとって推しは嗜好品である。この度それがはっきりと定義付けされた。おめでとう、そしてありがとう。嗜好品なので、過度な摂取は健康を損なう恐れがある。わたしは一度好きになると、飽きるまでそればかり摂取してしまう傾向があるので十分に注意が必要だ。自分にとっての適量を自分が楽しいと思える範囲で、つまり自分を害さない程度に摂取するのが大切だ。それが嗜好品と付き合っていく上では重要である。以上、解散!

 

推しの定義が明確になったにもかかわらず、あの火を見過ぎた代償なのか、あんなにも鮮やかだったピンクがどこかくすんで見えてしまう。最近は佐久間さんを観ていても前みたいに楽しくないし、嬉しくない。発売が決定したドームツアーの円盤を予約することすらできずにいる。今はそれが少し寂しい。